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大相撲スロー出世から東大関へ!初代・霧島一博の激闘の軌跡と驚異の肉体改造の真相

白羽 琴音 白羽 琴音 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
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大相撲の歴史において、「スロー出世」という苦難の道を歩みながらも、不屈の精神と徹底的な肉体改造によって東大関まで上り詰めた力士がいます。それが、現在も年寄・陸奥として後進の指導にあたる初代・霧島一博です。鹿児島県の農家に生まれ、幼少時から独自の鍛錬を重ねた彼は、軽量というハンデを乗り越えて昭和末期から平成初期の土俵を沸かせました。

本記事では、霧島一博の波乱万丈な経歴や、昭和の大横綱・千代の富士戦をはじめとする伝説の名勝負の数々、さらには引退後の動向や出版された自叙伝にまつわるエピソードまで網羅し、その知られざる真相を解説します。

初代・霧島一博のプロフィールと相撲界入りまでの原点

霧島一博

霧島 一博(きりしま かずひろ)は1959年(昭和34年)4月3日に鹿児島県姶良郡牧園町(現在の霧島市)で農家の長男として生まれました。本名は吉永 一美(よしなが かずみ)であり、のちに弟子の霧島鐵力と区別して「初代霧島」と呼ばれるようになります。幼少時から体を鍛えることが好きだったエピソードは有名で、小学校3年生の時には真冬でも頭から水をかぶって登校し、5年生からは重さ3kgもある鉄下駄を履いて生活していました。

中学校時代には野球部から柔道部に転向し、わずか2年で柔道二段を取得して地区大会優勝を果たすなど、並外れた運動神経と勝負強さを発揮していました。その素質を見出したのが、君ヶ濱親方(元関脇・鶴ヶ嶺、後の14代井筒)夫妻です。牧園町の自宅まで直接勧誘に訪れ、当初は両親の反対や周囲の懸念もありましたが、母親の後押しもあって中学卒業後に君ヶ濱部屋(後の井筒部屋)への入門を決意しました。当時の2つ上の姉は「痩せっぽちの吉永が相撲でやっていけるはずがない」と心配したといいますが、ここから伝説のキャリアが幕を開けることになります。

スロー出世の背景と凄まじい肉体改造の真相

1975年(昭和50年)3月場所に本名である「吉永」で初土俵を踏んだ霧島ですが、順風満帆な出世街道とはいきませんでした。当時の体格は身長187cm、体重132kgと、大相撲の中では決して大柄ではなく、むしろ軽量の部類に入りました。序二段時代の1976年(昭和51年)5月場所後には、故郷の霧島山にちなんで「霧島」へと改名します。

軽量でありながらも上位陣と互角に渡り合うため、霧島は三段目から本格的なウェイトトレーニングと高蛋白食を導入しました。これにより、次第に上位でも通じる筋肉質の強靭な肉体を築き上げることに成功します。得意手である左四つからの両前廻しを引き付ける取り口や、どちらの四つでも鋭く決まる「出し投げ」、そして足腰の強さを活かした鮮やかな「うっちゃり」は、この血の滲むような肉体改造の成果でした。しかし、速攻の力士や突き押しタイプの力士に苦戦することも多く、大関昇進までは地道な努力を重ねるスロー出世となりました。

時期・ステージ 主な出来事・取り組み 特徴・背景
1975年3月場所 本名「吉永一美」で初土俵 中学卒業後、君ヶ濱部屋に入門
1976年5月場所後 四股名を「霧島」に改名 故郷の霧島山にちなみ命名
三段目〜幕下時代 ウェイトトレーニングと高蛋白食の導入 軽量のハンデを克服するため筋肉質の肉体を構築
昭和末期〜平成初期 東大関昇進、千代の富士戦などの名勝負 左四つ、出し投げ、豪快な吊りを武器に活躍
引退後 年寄・陸奥を襲名、後進の指導 音羽山部屋などでの経験を経て弟子を育成

千代の富士戦の伝説と土俵で見せた名勝負の数々

初代・霧島一博の土俵人生を語る上で外せないのが、昭和の大横綱・千代の富士との名勝負の数々です。スピードと抜群の切れ味を誇る千代の富士に対し、霧島は得意の左四つと猛烈な出し投げ、そして豪快な吊りで真っ向から挑みました。攻めが遅い力士には無類の強さを発揮した霧島ですが、千代の富士のような圧倒的な速攻力を持つ相手とは、幾度となく名勝負を繰り広げました。

軽量を補って余りある鍛え抜かれた肉体と、相手の懐に潜り込む巧みな技術、そして土俵際での驚異的な粘りは多くのファンを魅了しました。東大関の地位にまで上り詰めた実力は、単なる体格の大きさに頼らず、相撲の技術と肉体改造を極めた者だけが到達できる境地であり、大相撲史に鮮烈な足跡を残しています。

現役中の自叙伝出版という異例のキャリアと海外での反響

霧島のユニークな実績として特筆すべきは、現役力士でありながら自身の半生を綴った自叙伝を出版したことです。子供時代から引退直前までの歩みを語ったこの書籍は、現役中に日本相撲協会の了承を得て刊行されました。現役力士による自叙伝の発売は極めて異例であり、霧島自身も著書の中で日本相撲協会に対する深い感謝の意を示しています。

さらに驚くべきことに、この本は1997年にフランスの大学で日本語教材として採用されました。いち日本人力士の自叙伝が海外の学校教材になるのは異例中の異例であり、フランス語版は『ある力士の自叙伝』と題されて相撲を全く知らない読者でも完全に理解できるよう丁寧な解説と注釈が施されました。これは、彼の生き様がスポーツや文化の枠を超えて世界的に共感を呼んだ証左といえます。

引退後の動向:陸奥親方としての現在と継承

現役引退後は相撲界に残り、年寄・陸奥を襲名して後進の指導に尽力しています。音羽山部屋などの系譜を引き継ぎながら、厳しい中にも温かさを持つ指導で数多くの力士を育て上げてきました。弟子の指導においては、自身の経験に基づいた効率的な体の鍛え方や、スロー出世から這い上がった精神力を伝授しています。

2026年現在も角界の重鎮として、相撲道の継承と発展に貢献し続けており、メディアやファンからもその手腕と人柄が高く評価されています。初代・霧島が築いたファイティングスピリッツは、現代の土俵や育成現場にもしっかりと受け継がれています。

【霧島一博】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:初代・霧島一博の最高位は何ですか?
A1:最高位は東大関です。スロー出世という苦労を重ねながらも、卓越した技術と肉体改造によって上り詰めました。

Q2:現役時代の得意手は何でしたか?
A2:左四つ、寄り、吊り、出し投げ、そして鮮やかなうっちゃりを得意としていました。どちらの四つでも決まる出し投げと足腰の強さが武器でした。

Q3:引退後はどのような活動をしていますか?
A3:年寄・陸奥として日本相撲協会に残り、後進の弟子たちの指導・育成にあたっています。

初代・霧島一博の足跡は、恵まれた体格だけに頼らず、徹底的なウェイトトレーニングや食事管理、そして不屈の精神力によって限界を突破できることを証明した好例です。子供時代の独自の鍛え方に始まり、スロー出世を耐え抜いて掴んだ東大関の座、そして現役中の自叙伝出版や海外での教材採用といった数々の実績は、今なお色褪せることはありません。

現在は陸奥親方として次世代の育成に情熱を注ぐ彼の生き様は、相撲ファンのみならず、困難に立ち向かうすべての人々に大きな勇気を与え続けています。




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コンテンツディレクター 白羽 琴音
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